信頼

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さて。

前回の最後に

キミの大切なヒトに相対する時、
相手を無条件にうけいれる。

コレができるようになるのには
絶対に必要なことがある

という話をしたのだけれど

※前回の記事:許容と受容

それは

まずもってキミがキミ自身を《受容》
できているかどうかということだ。

そもそも人間なんて完全無欠の清廉潔白、
何の後ろめたさもなく生きている
なんてことはないでしょ?

自分の醜いところ、汚いところを
もし自分で裁きだしちゃったら、、、

僕なんかもう、とてもじゃないけど
生きていけないし。。。^^;

いや、もちろん時には、自らの行いを反省し、
自分を裁く風なことだってある。

でも、それって、まず最初に
自分のコトを無条件にゆるすという
前提があってのコトなわけ。

あ、でも別にコレは

自分を甘やかす とか
バレなきゃ何してもいい とか

そういうコトではないよね。

自分の憧れる在り方というのが
人それぞれ、個々にあって、
そう在りたいと願いながら
人は一生懸命に生きているのだ。

そして、そう在るために
頑張っている過程で、時には
人を傷つけてしまったりとか
まぁ、様々な失敗もするわけなのだけど、、、

それが生きるということでしょ。

だから人は自分を《受容》するのが
本来、当たり前のコトなわけ。

ただ時々、僕たちは
自分自身を《許容》モードで
裁きだしてしまうコトもままあってね

そういう時ってとっても苦しくなるわけ。

こうあるべきだ、ならねばならない。
と、善・悪、正しい・間違ってるという
モノサシにあまりにとらわれすぎている時って
その苦しさから逃れるため
他人のコトも殊更裁きだしてしまうのよ。

そう。

だから、まずもって自分を
ノンジャッジメントでうけいれる。
コレができていない人は
言わずもがな、他人をなんて…

というか

もっと言えば、そもそも
ノンジャッジで他人をうけいれるのって
自分をうけいれるのとイコールなのかも ね。

だって、無条件に絶対信頼をしている
自分がうけいれるのであれば
そこに理由・理屈はいらないでしょ?

・・・

038

というわけで、今回の考察。

思いの外、長くなってしまったけど^^;
一応、これで最終回。

で、最後の最後に、例の友達が
「死にたい…」と言ってきたら?
問題について軽く…

生きることが善いコトで
死ぬのは悪いコト

というジャッジをしないで
その友達の思いをただ無条件に
うけいれてあげるのって???

という話なのだけれど

それは、きっと

「死にたい…」というのを
思いとどまらせようと
友達を説得するのではなく

「死にたい…」とまで言っている
友達の思いを理解してあげる
という感じなのかな と。

でね。

その思いが理解できたとき

「死にたい…」

の裏にある本当の思い

「生きたい!」

をうけいれてあげるコトが
できるはずだよね。きっと。

そうなれば、、、ね(¨ )

(おしまい…)

大切な友(※)

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◆大切な友
キミの大切な友人が ちょっと悩んでいる風の時、 何とか力になってあげたい という気持ちになるでしょ。 だけど、何をどう言ってあげても 相手の顔が晴れやかにならない。 んでもって、しまいには コッチがイライラしてきて、 そ… 続きを読む

よかったのぞいてみてね(^^ゞ
02

許容と受容

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『ゆるす、うけいれる』の第一歩というか、
理屈でイメージしやすいのが
〈許容〉というワード。

そんな話を前回したのだけれど

前回の話:情状酌量

これはあくまでも
自分の価値観による“有罪判決”を
そこにある様々な背景などを
勘案することによって

まぁ、ゆるせる、仕方ない

的な方向でうけいれるということだ。

もちろん、通常の人間関係においては
これで充分というか、僕たちは
そうやって社会に適応しているわけ。

でも、コレだとそこにはやはり
大前提として何らかの善悪・白黒
的なジャッジがあることに変わりはない。

“許容範囲”ってよく使うでしょ。

この“範囲”という枠がいわば
自分の“価値観”ということだよね。

そう。

“範囲”という限定条件がくっついている
ゆるしでは《ノンジャッジメントモード》の
発動にまではいたらないのだ。

で、前々回に紹介したエクササイズの
話に戻るのだけれど

※前々回の話:暇つぶし

あれはあくまでも

ゆるし・うけいれる

というときに使われる
ココロの筋肉(あくまでもイメージです)を
柔軟でしなやかにするためのモノなわけ。

最初はアレコレと背景にある物語を
でっち上げて、ようやっとそこにあった
感情が緩むというか何らかの変化が起こる
というプロセスを踏むわけなのだけれど

コレを恒常的にやっていると

やがては別にわざわざ物語を頭で描かなくても
瞬時に同様の反応をココロができるように
なってくるというか…

言ったら、もうそこの部分の筋肉は
グニャグニャで、ちょっと意識すれば
自由自在にどんなカタチにでもできる
みたいな感じになってくる。

そんなイメージなわけ。

で、自分の身近で大切に思っている
相手に対してならば
特別な理由はいらないというか

自分が大切に思っている相手だから

というコト、もうそれだけで

〈ゆるし・うけいれる〉

というココロのコンディショニングが
できるようになってくるはずなのだ。

この感じって言葉であらわすのが
かなり難しいのだけれど、
あえて何かしらのワードを使うなら

《許容》ではなく《受容》

ということになるのかな。

許容範囲とはいうけど、
受容範囲ってあまり使わないでしょ。

許容というのはフォーカスが
その人がやったコトに向いている

のに対して

受容というのはフォーカスが
その人そのものに向いている

そんな感じなのだけれど

この違い、何となくわかるでしょ?(¨ )

もちろん、この感じを実感するのって
一朝一夕、簡単にはできることではないのだけれど
もし、この感じで大切な人に相対することが
できるようになったら

キミは間違いなくその相手にとって
かけがえのない存在だ。

028

ということで、この考察も
そろそろ一区切りという感じに
しようと思うのだけれど、
最後にもうひとつだけ。

受容・ノンジャッジメントモードで
キミが大切な人に相対することが
できるようになるために
絶対に必要なコトがあるのだけれど。

それを次回、ちょっとだけお話して
最終回にしようか と。

どうぞ、あと1回だけ、
お付き合いのほどを(^^ゞ