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さて。
前回の最後に
キミの大切なヒトに相対する時、
相手を無条件にうけいれる。
コレができるようになるのには
絶対に必要なことがある
という話をしたのだけれど
※前回の記事:許容と受容
それは
まずもってキミがキミ自身を《受容》
できているかどうかということだ。
そもそも人間なんて完全無欠の清廉潔白、
何の後ろめたさもなく生きている
なんてことはないでしょ?
自分の醜いところ、汚いところを
もし自分で裁きだしちゃったら、、、
僕なんかもう、とてもじゃないけど
生きていけないし。。。^^;
いや、もちろん時には、自らの行いを反省し、
自分を裁く風なことだってある。
でも、それって、まず最初に
自分のコトを無条件にゆるすという
前提があってのコトなわけ。
あ、でも別にコレは
自分を甘やかす とか
バレなきゃ何してもいい とか
そういうコトではないよね。
自分の憧れる在り方というのが
人それぞれ、個々にあって、
そう在りたいと願いながら
人は一生懸命に生きているのだ。
そして、そう在るために
頑張っている過程で、時には
人を傷つけてしまったりとか
まぁ、様々な失敗もするわけなのだけど、、、
それが生きるということでしょ。
だから人は自分を《受容》するのが
本来、当たり前のコトなわけ。
ただ時々、僕たちは
自分自身を《許容》モードで
裁きだしてしまうコトもままあってね
そういう時ってとっても苦しくなるわけ。
こうあるべきだ、ならねばならない。
と、善・悪、正しい・間違ってるという
モノサシにあまりにとらわれすぎている時って
その苦しさから逃れるため
他人のコトも殊更裁きだしてしまうのよ。
そう。
だから、まずもって自分を
ノンジャッジメントでうけいれる。
コレができていない人は
言わずもがな、他人をなんて…
というか
もっと言えば、そもそも
ノンジャッジで他人をうけいれるのって
自分をうけいれるのとイコールなのかも ね。
だって、無条件に絶対信頼をしている
自分がうけいれるのであれば
そこに理由・理屈はいらないでしょ?
・・・
というわけで、今回の考察。
思いの外、長くなってしまったけど^^;
一応、これで最終回。
で、最後の最後に、例の友達が
「死にたい…」と言ってきたら?
問題について軽く…
—
生きることが善いコトで
死ぬのは悪いコト
というジャッジをしないで
その友達の思いをただ無条件に
うけいれてあげるのって???
という話なのだけれど
それは、きっと
「死にたい…」というのを
思いとどまらせようと
友達を説得するのではなく
「死にたい…」とまで言っている
友達の思いを理解してあげる
という感じなのかな と。
でね。
その思いが理解できたとき
「死にたい…」
の裏にある本当の思い
「生きたい!」
をうけいれてあげるコトが
できるはずだよね。きっと。
そうなれば、、、ね(¨ )
(おしまい…)